不安粘着気質?
不安粘着気質?
幼少期に大切に養育されないと、対人関係において相手の中に自分への配慮のなさを見つけよう見つけようとする傾向が形成される。
好意的な相手やよくしてくれる相手にも、自分への敵意や配慮のなさを見つけようとして、コミュニケーションにおいて「空気が読めない」言いかえると「良識的相互性が働かない」状態に陥る。
このような状態になると、完璧な善意行動以外は、all-badな行為と認識されてしまう。
端的にいえば被害的となる。
そこまで至らない場合でも、不安になりやすく、無意識に保証を求めて粘着するようなコミュニケーションパターンが形成される。
この粘着性は、自らの不安低減欲求のみに作動するので、相手の気持ちを読み取れなくなってしまう。
コミュニケーションは一方的となり、相手は話す意欲をなくしてしまう。
相手の関心が離れたことを読み取る機能は過剰に働くため、この人は私のことをどうでもいいと思っているなどと被害的になり攻撃的となる。
コミュニケーションの破綻が、自らの空気の読めなさにに端を発するにもかかわらず、その原因を相手の無思慮さにすり替えてしまう。
被害的かつ自らを悲劇のヒロインと位置づけ、孤独の檻に自らを閉じ込め、倒錯的自己愛満足に安住することになる。
他者との関わりのなかで、満たされることが終生なくなってしまう危険にさらされてしまう。
このような状態から脱却するのは容易ではないが、宗教やスピリチュアルなものが救いとなることがある。
このような人に、精神医学はあまりにも無力である。
このような状態を精神医学的に治癒させるためには、最低でも週に1回、1回1時間あまりの面接を行うことが要求される。
中途半端な面接は逆効果、治療者に失望と怒りを感じてしまう結果となる。
他者への感謝という視点を育まなければ安寧は訪れないのだが…
短時間の面接で、これをどう自らの発想としての気づきへと導くか、精神医学に課せられた宿題である。