FrontPage/2024-09-22
Tag: 映画
自己防衛のための自己犠牲
アキ・カウリスマキの「街のあかり」を観て、主人公コイスティネン(男優はヤンネ・フーティアイネン)が自分を陥れた美女ミルヤの不正を暴露せずに罪をかぶって服役し、出所後になんとか得ることのできた職場(レストラン)で出くわし、それ故にせっかく得た仕事も追われることになっても、ミルヤの不正をあばかなかったことの心理を分析してみました。
コイスティネンのミルヤへの忠誠的な庇い(かばい)には、彼の内面的な孤独と自己価値の問題が深く関わっていると考えられます。
孤独と自己価値の問題
コイスティネンは映画の中で非常に孤独な存在として描かれています。彼は友人も恋人もおらず、社会から疎外された存在です。このような状況下で、ミルヤとの関係は彼にとって唯一の人とのつながりとなります。たとえその関係が偽りであっても、彼にとっては重要な意味があったのでしょう。
ミルヤへの依存と恐れ、そして願望
ミルヤの不正を暴露することは、コイスティネンにとって彼女からの明確な拒絶を意味します。彼は、ミルヤが自分を利用していることを知りながらも、その関係を失うことを恐れたのです。これは、彼が他者から受け入れられないという自己像を持っているためでしょう。ミルヤとの関係が終わることで、彼は再び完全な孤独に戻ることを恐れたのです。また、ミルヤも根っからの悪人ではなく、愛人であるボスの命令に逆らえずコイスティネンを陥れたことに罪悪感を持っています。そういったミルヤの思いを無意識に感じ取って、ミルヤの不正を暴かないことで、自分の元にミルヤが戻ってくるという無意識の願望に期待したかったのかも知れません。
忠誠と自己犠牲
コイスティネンのミルヤへの忠誠は、自己犠牲の一形態とも言えます。彼は、自分が犠牲になることでミルヤを守ろうとしますが、これは彼自身の価値を見出すための行動でもあります。彼の行動は、自己価値を他者に認めてもらうためのものであり、ミルヤに対する忠誠はその一環として理解できます。
私見まとめ
コイスティネンの行動は、彼の孤独と自己価値の問題から来るものであり、ミルヤからの明確な拒絶を恐れる心理が働いていると考えられます。彼の忠誠的な庇いは、他者から受け入れられない自己を守るためのものであり、ミルヤとの関係を失うことへの恐れがその根底にあるのではないでしょうか。
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