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不幸なわたし?

不幸なわたし?

メンタル面の症状の成り立ちを読み解くいていくと、

症状形成には大まかに2つの流れがあるように思われます。

1つは「不幸なわたし」、そしてもう1つは「ダメなわたし」でしょうか。

今回は、「不幸なわたし」の流れ、あるいは「不幸なわたし」物語について考えてみることにしましょう。

症状が生じることで苦痛が生じるのですが、症状にはメリットもあるのです。

まず、「不幸なわたし」の構成要素を見てみると次のようなものがあると思われます。

・誰も理解してくれない
・誰も助けてくれない
・不遇な運命にある
・迫害されている

続いて「不幸なわたし」物語のメリットですが、それには次のようなものがあります。

私は不幸であるのメリット1

・誰も理解してくれない

私は崇高であるのに理解してもらえない悲劇の主人公である

迫害されるほどに注目されている

私は価値がある

①「自尊心の傷つきの回避」

私は不幸であるのメリット2

・誰も助けてくれない

挫折するのは必然の結果である

挫折するのは自分のせいではない

責任を取らなくてもいい

②「責任を取らないことへの罪悪感の回避」

私は不幸であるのメリット3

・不遇な運命にある

運命には逆らえない

努力しても無駄

努力しなくてもいい

③「辛い努力の回避」

すなわち、症状が生じることで、「自尊心を喪失することを回避」でき、「責任を取らないことへの罪悪感を回避」することに正当性をもたらし、「辛い努力をすることを回避」できるのです。

これらは自己評価の低さを防衛する心的メカニズムといえるでしょう。

自己評価が低ければ、現状の自分、現状の状況、そして現状からもたらされるであろう未来の帰結をそのままに受け入れることが出来なくなります。

受け入れることができないものは、それを変形して受け入れられる形にしなければなりません。

受け入れられないものを回避するため、受け入れられる心的理由付けをするのです。

しかし、この心的理由付けは無意識に自分が選択してる思考過程(言語行動)なのです。

望ましくない出来事や状況の生起により、この出来事や状況は「とんでもなく恐ろしい危険なことである」「自分には全くコントロールできないことである」という無意識の信念がバックグラウンドで働いているのです。

危険でコントロールできないものは、耐えられないので消し去らなければならないはずです。

そこで上記の3つの回避が生じることになります。

これらの心的理由付けについて考え続けることは「役に立つ」という信念も別次元で作動しています。

役に立つとは、考え続けることで「そうなった理由が解明される」「理由が分かれば次に同様なことが生じることを防止できる」というものです。

しかし、このようなことを考え続けることで、それ以外のポジティブな情報や、意味を持たない中性的情報(ネガティブな刺激の緩和に役立つ)に気づくことを妨げられる結果となります。

ネガティな情報に注意が集中することになるのです。

ネガティブな情報に注意が集中することは、自分で自分の傷口をいじくっていることになるのです。

どんなにいい薬や環境の調整を行っても、自分で傷口をいじくっている限りは、傷は治ることがないのです。

症状に苦しんでいる患者さんには酷ですが、このような思考過程を選択している状態から、意図的にこの思考過程を放棄して合理的な思考過程を回復することが、症状の回復には必要となります。

防衛的な思考過程に気づき、それを放棄していく決断が要求されるのです。

症状に悩んでいても、少しでも主体的に生きて行きたいと本能的方向性を持っている方は、その決断を行うことができるようです。

しかし、被害的構えが人格の中に組み込まれているかのようになっている方は、残念ながらこの決断ができません。

まずは不幸なわたしストーリーを持っているのか自問してみること、そしてそれに気づくことが第一歩です。

一度、こういった視点で自らの心をサーチしてみるのもいいかもしれません。

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