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Fordyceの疼痛行動と疾病利得

Fordyceの疼痛行動と疾病利得

Fordyceの提唱する疼痛行動とは、疼痛に関連する行動で、自分にとって好ましい結果が得られている故に継続させている行動のことです。

例えば、痛みを訴えることで、休める・補償金が貰える・優しくしてもらえるなど、心理的物理的に自分に有益なことが生じるために、痛みを訴えることが持続するというような場合が相当するでしょう。

つまり、痛みに利益が付いてくることがその本質です。

これは二次疾病利得と同じことを行動分析の立場で言い換えたものでしょうか。

痛みを訴えることで利益を得るのではなく、痛みとは別個の「自分らしい生き方を生きる」ということで充足感をえるように行動を変えていかなければならないはずです。

しかし、疾病利得は強力です。

痛みがあって、

1.働かなくてもお金が得られる
2.働くことで身体的きつさ・精神的辛さ・時間的制約などなど種々の苦悩を回避できる
3.周囲が自分を気遣ってくれる

いかがでしょうか、疼痛を精神疾患と言い換えてみると…

うつ状態があって、

1.働かなくても生活費が得られる
2.働くことで対人関係のトラウマからのフラッシュバックを回避することができる
3.周囲も働かないことに病気だからと責めることをしなくなる

このような無意識下の心理状態にある場合、治ると困るという心理的力学(力動)が働いてしまうのは容易に推測できるのではないでしょうか。

もっと極端な例を思考実験してみましょう。

これはK県K市で10代の子供3人の母子家庭の場合、生活費の支援約31万円+児童扶養手当て約5万円で、総計36万円の収入となるそうです。

年金保険料と健康保険保険料、市県民税、所得税および医療費がかかりませんので、実質総所得額(税金や保険料込の収入:可処分所得ではない)は年収600万円に相当(平均年収を調べる日本最大級の年収ポータルサイト「平均年収.jp」による概算を参考)する額になるでしょうか。

難しい年頃の子供を抱えて、対人関係でトラウマ的嫌な体験をしてきた人にとっては、育児家事に専念したい思いはやまやまで、働くことに抑制的心理が働くでしょうし、病気であることで働く要求をされないとなると、私でも働く意欲は殺がれてしまうと思います。

こういった状況にある方々を、治療により改善に導くのは難しいのではないでしょうか?

特に長らく症状が回復してこなかった方々の治療には、ご本人が気分や意欲の低下にもかかわらずリハビリ的努力をすることが必須となります。

しかし病気が治って働けるようになれば、対人関係でのトラウマや仕事でのストレスを背負わねばならなくなりますし、仕事をすることでただでさえ大変な育児や家事にかける時間を制約されることになります。

治るメリットはあるのでしょうか?

生活費の支援を受けている世帯の場合、就労したとしても多少のプラスはあるものの、支給される生活費から収入が差し引かれるため収入が働いた分だけ増える訳ではありません。

働いても辛いことは増える一方では、何もメリットはないように思えます。

それでも、多くの被支援世帯の方々は、人様の世話になって生きるより、貧しくても自分のチカラで生きていきたいという生きる価値の方向性を持って就労を目指しているといえるのではないでしょうか。

しかし、子供を抱えたお母さんが、生活費支援での収入に相当する収入を得られる職に就けることは殆ど不可能でしょう。

仮に、非保護の母子世帯の平均年収200万円の仕事に就いたとしても、支援費に満たない収入をやはり支援されることになりますので、働いても働かなくても支援から離れることはできません。

働いて、「嫌なことが増える+支援から離れることができない」では働こうという意欲が抑制されることに何の不思議もありません。

つまり、二次疾病利得(病気であることの実益)がより強固になってしまいます。

支援を「受けたくない」→「受けざるをえない」→認知的不協和→認知の変換→「病気だから受けているのは悪くない」→病気であり続けることで「受けたくない」けど「受けざるをえない」という心理的葛藤を苦悩せずにすむ→一次疾病利得(病気であることの心理的利益)の強化となってしまいます。

このように一次二次の疾病利得が強化され、治ると困る構造が形成されれば、もう治療者は無力となり、治るお手伝いをできなくなってしまいます。

治れば辛い現実に向き合わなくてはならなくなりますし、心理的葛藤を苦悩する状態となります。

治っても嫌なことしか生じないのですから、治るための試みをすることをしなくなるでしょう。

しかし、ここに、その人それぞれの生きる価値の方向性という考えを導入すると、話は少し違ってきます。

もし、ある人が、「自分は何かに積極的に関与し行動していくことに充実感を感じ、そのように生きていきたい」という価値の方向性を持っていたとしましょう。

そんな人がうつ病になり、何年も意欲が低下して何もできない状態となり、職も失って生活支援を受けている場合、

治療者がその人の価値の方向性にアプローチして、それをその方の意識に再浮上させることができるなら、治ることで苦悩が生じるとしても、その方の生きる価値の方向性に沿って歩んでいるという充足感が、苦悩を凌駕するかもしれません。

ある人の価値の方向性が、「自分は苦しいことは回避して、とにかく平穏に悩むことなくひっそりと生きていたい」というものであれば、疾病利得を打ち負かすことができないでしょう。

けれど、後者のような価値の方向性持っている方は極めて少数だと思います。

それぞれの方々が持っている向社会的な価値の方向性を見つけ出し、それを膨らませていくのが治療なのかもしれません。

未だ、私にその能力があるのかどうかは自信がありませんけれど、そういった観点で、難治な病状を改善へと向かわせることのお手伝いができればと思っています。

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