パチンコ屋に通う人を非難できるか?
パチンコ屋に通う人を非難できるか?
緊急事態宣言の対象が全国に広げられ、東京や大阪、福岡などでパチンコ店の営業自粛が要請されています。
それでも営業しているパチンコ店が少数あるようです。
大阪に始まり東京や福岡も、自粛要請に協力しないパチンコ店の実店舗名を公表するに至っています。
働いている人やその家族の生活への保障もいまだ手続き中で実行されず、中小企業や個人事業主への保障や融資システムも有効に機能しているとは言えない現状です。
営業を続けるパチンコ店にも言い分はあるでしょう。
それはそれとして、パチンコ店が営業しているからといって、自宅近くのパチンコ店が閉まっているのでと遠方から来店する人も少なくないようです。
これらの我慢できない人々の心理はどのようなものなのでしょうか。
人の欲求から見たパチンコ
マズローは人間には5段階の欲求があるとしています。
生理的欲求、安全の欲求、愛と所属の欲求、承認欲求、自己実現の欲求です。
さらに自己超越という段階があるとしていますが、こんな高度の欲求は別として、営業することも行くことも自粛要請されているパチンコ店に行くというのはどのような欲求によるものなのでしょうか。
パチンコをするということは生理的に必要なものではなく、パチンコをしないからといって命に係わことになる訳ではありません。
ご飯を食べるとか眠るとかなどという健康や生命維持に問題となるものではないのです。
また、嵐や猛獣、強盗から身を守るための場所を確保するという安全の欲求を満たすものでもありません。
新型コロナウイルスに感染するというリスクを高めるという意味では、安全の欲求に反する行為とも言えるでしょう。
そして愛と所属の欲求も、承認欲求も、自己実現の欲求も満たす行為でもありません。
ただ、今述べた3つの欲求が満たされていないとき、その不全感を忘れるためにする行為としてパチンコに夢中になるという意味合いはあるでしょう。
現実逃避、心理的には回避行動と言えなくはありませんね。
自粛要請されているパチンコをするということは、欲求満足というよりは、心理的ストレスを不適切な方法で解消するために行っている行動なのです。
自分は大丈夫とか気をつけているではすまされない!
苦痛なことから逃れたいと思うのは人として当然のことです。
ただ、心理的痛から逃れるために自らが新型コロナウイルスに感染するリスクを高めるだけでなく、他人が感染するリスクを高める行為であるということを意識する必要があります。
新型コロナウイルスは感染した人が発病しなくても他人に感染させるリスクがあります。
また、自分が感染しなくても、自分の手や衣服に付着していたりしているウイルスを他の場所に運んで感染を広げるリスクもあるのです。
移動中や移動先で自分が触ったドアノブや手すりにウイルスが付着することで感染を広めるリスクだってあるのです。
他人に迷惑をかけるどころか、他人の命を脅かすことになるリスクのある行為だということを意識しなければなりません。
我慢する心の働き4態
例外はあっても動物は欲求に従って行動するものです。
しかし、人間には自分の欲求に反して行動しないでおくことのできる理性というものがあります。
今の楽しみが自分に害悪をなすから、あるいは他人を害する可能性があるから止めておこうと考え、自分の行動を律することができるのです。
この止めておこうと決断するレベルには主に3つのレベルがあります(「武士道初心集」よりの解釈)。
1つは元々が「義」を重んじ自然発生的に誠実さにより「義」を行い、他人に迷惑をかける行為はしないというレベル。
もう1つは自分がしてはいけないことを知っており自分を恥じて「義」を行うというレベル。
そしてもう1つは他人の目があるから、他人から悪く思われるから「義」に反する行為をしないというレベルです。
さらに「義」とは別枠で依存症というレベルがあります。
これは「してはいけないと分かっていても我慢できずにしてしまう」というものです。
これは「義」が十分にある人でも、「恥」を感じるときでも、他人から悪く思われることになっても我慢できない状態です。
パチンコを我慢できない理由
上で述べたように、パチンコを我慢できないのは、「義」が薄いか、自分が恥ずべき行為をしていることに「恥」を感じにくいか、他人から悪く思われるのを気にしないか、あるいはパチンコ依存症になっているかのためだと考えられます。
自粛要請に応じられない人は非難されるべきか?
英国の哲学者ジョン・スチュアート・ミルは「他人に迷惑や危害を加えない限り、他人にとって不愉快なものであっても、社会は各人の自由を制限してはならない」というように個人の自由について述べています。
緊急事態宣言発令下にあって自粛要請されているパチンコ店に行く人は、人に迷惑や危害を加えることはいけないことであるという観念が弱いのでしょうか?
これはなかなか難しい問題です。
知識がないことによるもの
無症状であっても他人に新型コロナウイルスを感染させる可能性があることを知らないかもしれません。
人と接しなくても、感染している人の唾液などが付着した手すりなどを触って、自分の手に新型コロナウイルスが付着して、その手でまたお店のドアノブなどを触ってウイルスを拡散させる可能性があることを知らないのかもしれません。
どの程度のリスクであるかわからないことによるもの
上であげた2つのリスクの可能性がどの程度あるのかが分からないために切迫感がないのかもしれません。
自分が無症状であっても、感染していなくても、パチンコ店でパチンコをすると、1日で10人と接したら7人に新型コロナウイルスを感染させることになるなら、パチンコ依存症以外の人はパチンコをしに行くことはないでしょう。
これはパチンコに限らず旅行でも同じです。
あなたが旅行に行って10人に接したら7人が感染することになりますよと言われれば、旅行に行く人はいないでしょう。
でも、旅行に行った10000人が、それぞれ10人と接して、それぞれが接した合計10万人の人のうち1人しか感染しませんよと言われれば、旅行に行ってしまう人が相当数でることになるでしょう。
この、どの程度の感染させるリスクがあるのかが明確にされていないため、「したい」vs「他人に害悪をなすからやめよう」という心の戦いで、「したい」が勝ってしまうのです。
しかし実際のところ、この確率を明確にすることは困難です。
ではどうすればいいのか?
これは政府が主張するように、とにかく人と会うのを8割少なくするころ、そして不要不急の外出をしないこと以外に方法はありません。
そうして新型コロナウイルスの感染者の数を少なくし、医療崩壊を防いで、ワクチンや治療薬の開発が進むのを待つしか方法がないのです。
あるいは感染者の数が医療崩壊とならない数に抑制して、国民の多くが新型コロナウイルスに感染するのを待つ、つまり集団免疫戦略も1つの方法かも知れません。
しかし、新型コロナウイルスへの免疫がどの程度感染防御力があるのか?その免疫力がどれくらいの期間効力をもち続けるのか?が分らないため、集団免疫戦略は有望な方法とは言えません。
いずれの方法にしろ医療崩壊を起こさないことが大前提です。
医療崩壊を起こさないためには感染者数を一定レベルに押え込まなければなりません。
一定レベルに押え込むためには人との接触を制限する必要があるのです。
とは言うものの、外出制限や三密となる企業活動の自粛が長欺に及べば、各個人のストレスの増加や経済的問題が生じてしまいます。
経済支援も財政上の限界が生じてきます。
解決の難しい問題です。
妙案はないものでしょうか…