「自粛警察」者の心理的メカニズムとは?
「自粛警察」者の心理的メカニズムとは?
前書き
2020年5月5日、NHKは"自粛警察"についてのニュースを報道しました。
緊急事態宣言が発令され外出やお店の営業などを自粛するよう要請されている日本で、繁華街に出むいたりパチンコに出かけて自粛要請に従わない人などをネット上で非難する書き込みが多くなっています。
NHKによれば、こうした行為を自粛警察とネット上で呼ばれているのだそうです。
新型コロナウイルスに感染していることが分かったにもかかわらず、帰省先の山梨から高速バスに乗って都内に戻った20代の女性の場合には、
ネット上の掲示板やSNSに名前や写真、家族の職業や写真が公開され、その女性の人格をおとしめる書き込みが多数投稿されてるのだそうです。
また個人の特定ではありませんが、公園やお店に集まって密集状態を作っている人々の写真や動画が多く投稿され、自粛要請無視!との批判が行われています。
NHKは、社会心理学者で東京大学の関谷直也准教授の以下のような見解を伝えています。
引用
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「背景には未知の病気に対する不安や行動を抑制されていることへの不満があり、他の人を非難することでそれを解消している」
「差別を生じさせる許されない行為で、冷静に対応してほしい」
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これらネット上で正義を正そうとする人の心理はどのようなものなのでしょうか?
自粛警察者の5つ(?)の心理的要素
5つの心理的要素は大きく2つに分けられると私は考えています。
それは前提的要素と生来的要素です。
前提的要素
新型コロナウイルスへの恐怖感
人が恐怖感を感じるためには次に示す3つの条件が満たされる必要があります。
- その状況は危険である
- その状況はコントロールできない
- その状況は切迫している
*「その状況は危険である」について
新型コロナウイルスに感染すると死ぬリスクがあることは事実です。
高齢者が感染した場合だけでなく、心疾患や癌などの基礎疾患がある場合は死亡するリスクが高まります。
志村けんさんの死で、新型コロナウイルスは死に繋がるのだとということを実感した人が多いのではないでしょうか。
世界中で何万人も死んでいることよりも、志村けんさんの死はインパクトが大きかったはずです。
新型コロナウイルスに感染すれば死ぬリスクがあるのだ!大切な家族が死ぬリスクがあるのだ!という様に、新型コロナウイルスが死を招く危険なものであるということが深く心に刻み込まれることになったでしょう。
*「その状況はコントロールできない」について
新型コロナウイルスは、どうやらインフルエンザよりも感染性が強く、インフルエンザとは違って症状が出ていない人からも移るだけではなく、感染していない人からも感染させられる!リスクがあるのです。
どういうことかというと、感染している人の唾液が付着したものを触った「感染していない人」が触った手すりや吊革、ドアノブ、壁、服などからも感染するリスクがあるということです。
感染した人の唾液などが付着すると、付着した物質により数日以上も感染力が持続するといいます。
要するに避けようがない、逃げようがないのです。
その上、ワクチンも治療薬もまだないか使用できない現状では、感染を予防したり、感染しても確実によくなるための手段がないのです。
感染すれば死ぬか助かるかは神のみぞ知るということ。
感染を防ぐことも根本治療することもできない、つまり全くコントロールできない状況だと言えるしょう。
ですから新型コロナウイルスはコントロールできないという無意識の前提が生じることになるのです。
*「その状況は切迫している」について
新型コロナウイルスへの感染が切迫していると感じさせる状況は、志村けんさんの新型コロナウイルスによる死に加えて、日本政府による史上初めて発令された緊急事態宣言によって生じました。
学校の休校、生活必需品や生活に直結すること以外の店舗の休業要請、出勤する人の数を減らせという要請により切迫度は高まったのです。
我慢していることへの不満やストレス
多くの人が自分は感染したくない!家族や大切な人に感染して欲しくない!社会的な危機を早く脱して欲しい!と願っているはずです。
だから、したいことも我慢して自粛要請に従っています。
こういったしたいことを我慢することや、自宅で籠っていること自体が大きなストレスになります。
それに加えて、人間は他人と比較してストレスを感じるという特性があります。
これは次に述べる生来的要素になるでしょう。
生来的要素
他人との比較から刺激される糾弾欲求
自分は他人より苦しい目に合っていると感じるとストレス感は高まる様です。
古い研究ですが、A、B、C、Dという4つのグループに分け、AとBは絶対知的に高いストレス状況に置き、CとDは絶対値的にはAやBよりかなり低ストレス状況に置きます。
AとBのストレス強度は「A>B」であり、CとDのストレス強度は「C>>>D」としました。
ストレスの強さは「A>B>>>>C>>>>D」ということですね。
これらのグループの中で一番ストレス感の強かったグループは、絶対値的にはストレス強度のより強いAとBよりもCが一番ストレス感が強かったというのです。
これば何を意味しているかというと、ストレス強度の絶対値の大きさよりも、他人と比較したストレスの大きさに差がある方がストレス感は強いということになります。
人間は人と比較してストレスを感じるものなのでしょう。
新型コロナウイルスの感染危機に晒されている現在、自分は「自分のため、大切な人のため、社会のためにしたいことを我慢している」のに、この人たちはしたいことを我慢せずズルをしているという怒りが生じることで、これらの人たちを糾弾したいという欲求が生じるのでしょう。
正義感からの怒り
正義感も本能に組み込まれた要素とも言えます。
社会防衛的に望ましくない行動を行う者への怒りです。
京都大学のKanakogi(発表当時)らは、2017年に興味ある報告をしています。
言語能力の獲得されていない生後6ヶ月の幼児でさえ、他人攻撃にあって困っている対象を助ける第三者の行動に好意を感じると報告しているのです。
また、引用文献は忘れましたが、言語能力を獲得する前幼児でも、ある幼児が遊んでいるおもちゃを別の幼児が奪ってしまうと、第三者の別の幼児が、おもちゃを奪った幼児を睨むのだそうです。
これらの報告は、言語能力を獲得していない幼児でさえすでに正義感の芽が観察されるということ示しています。
正義感は生来的に持っている可能性があるのですね。
それゆえに、自粛要請に応じず、したいことを我慢しない人に怒りを感じるのでしょう。
強迫的あるいは強いこだわり
これは個性に分類される要素でしょう。
ある種の発達障害や強迫的性格傾向のある人は、すべきでないと感じていることを、他人がそれをすることを許せません。
現在の新型コロナウイルス危機にあって自粛すべきであると感じている強迫性格傾向や発達障害的こだわりの強い人は、自粛しない人が許せないのです。
そのため自粛しない人たちを許せないのでしょう。
そしてネットで自粛しない人たちを攻撃することになります。
余禄:だれでも必殺仕置人になれる現代
必殺仕置人というのは若い人には馴染みがないかもしれませんが、1973年ころ放映された、法的には罰せない不条理な不正を行う人たちに仕置人が惨たらしい罰を与えるというようなドラマでした。
罰自体は非合法的かつ非人道的ものでしたが、心のうさが晴れるためか結構な人気番組になりました。
この仕置人と同じように、不快な他人に罰を与えることができるのが今日のネット社会なのです。
私の記憶の範囲では、最初にこの兆候を感じたのが東芝クレーマー事件でした。
あるユーザーが東芝との会話の音声をネットで公開した結果、東芝製品の不買運動まで発展しました。
ユーザーに対する東芝側の恫喝とか言論弾圧とまで言われ東芝に大きな批判が生じたのです。
社会的に影響力を持たないと思われていた個人が、ネット上で意見を公開することで社会を動かすことができることが明らかになった事件でした。
注)この事件については、ユーザー側にも問題があったことが分かっています。
その後、2014年の佐世保女子高生殺害事件でも、加害者の実名や写真、家族の情報までがネット上に流出しました。
この件については罰を与えるというような意味合いは少なく、知りたい知ってるぞ的なものであったように思います。
しかし、いずれにしても社会的に影響力を持たない普通の人が社会的に大きな影響を与えたり、テレビや新聞では知り得ないような情報を社会に知らしめる力を持つようになってきているのが現代のネット状況なのです。
自分のちょっとした正義感や不条理感から生じるネット上の不正者への攻撃は、人権侵害になる可能性が高いと思われます。
節度を持って行動することが望まれるでしょうね。