「A Monster Calls(邦題:怪物はささやく)」の伝えたいこと
「A Monster Calls(邦題:怪物はささやく)」の伝えたいこと
今日は、珍しくも映画について語ります ^ _ ^
今回とりあげるのは「A Monster Calls(邦題:怪物はささやく)」です。
SF映画好きの私が、Amazonプライムで無料で観ることのできる映画でたまたま見つけた映画が「A Monster Calls(邦題:怪物はささやく)」でした。
予想外にちょっとグッとくるところがあったのでシェアします。
変えられない運命を受け入れるには強さが必要であり、その為には自分の本当の思いを率直に見つめ、それを伝える勇気を持たなければならないというようなことが、この映画の主題ではないかと感じたのです。
本作のキャストなど
主演は、映画「PAN ネバーランド、夢のはじまり」でニブス役を演じたルイス・マクドゥーガル。
その母役がローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリーで主役を演じたフェリシティ・ジョーンズ。
そして祖母役はエイリアンシリーズで名を馳せたシガニー・ウィーバーという豪華配役陣です。
シガニー・ウィーバーが脇役で出ているというのが実は、この映画を観る決め手となりました。
さらにSFXも手を抜いておらず、製作費も4300万ドル(1ドル107円換算で約46億円)と結構お金をかけています。
結果として観て良かった作品でした。
ストーリーとその意味合いは?
存在感が薄く、虐められっ子でもあるコナンという少年の自宅に、ある日、怪物が現れます。
怪物が現われるのは決まって午前0:07でした。
きっとこれは、怪物の正体である人物の死亡時刻なのかも知れません。
怪物はコナンに3つの話をします。
(1)お妃と王子の物語
王を殺した魔女である王妃から結婚を迫られ、王子は愛し合った農夫の娘と駆け落ちします。
逃避行の途中で朝起きてみると農夫の娘は刺殺されていました。
王子は娘を殺したのは王妃であると言って農民たちを扇動し、王妃を打ち負かすのでした。
ところが真実は、王は病死であり、農夫の娘を殺したのは王子であったのです。
王子は農民の反感を煽って反乱を引き起こすために農夫の娘を殺したのでした。
怪物は王妃を助け出し、王妃は別の場所で平穏な人生を送って人生を終え、王子は王となって善政を行い立派な王として終末を迎えます。
この物語は、人間とは完全な善も完全な悪もなく、善と悪が混在する存在であるということを怪物はコナンに伝えようとしているのでしょう。
(2)薬剤師と神父の物語
病気は確実に治すが見返りを強要する薬剤師を、正義感に基づき追放した牧師のお話です。
この牧師の2人の娘が病気になって死にそうになったとき、牧師は追放した薬剤師に助けを求めます。
自分の都合に合わせて、あるいは無意識的に、矛盾した行動をとるのが人間であると怪物はコナンに伝えたかったのではないでしょうか?
(3)存在感のない男の物語
誰からも気づかれることのない男が、自分の存在とは何か?と悩む透明人間的男のお話です。
コナンは学校で透明人間のように誰からも意識されることのない存在でした。
唯一の例外は、虐めっ子がコナンの存在を認知してコナンを虐めるというものです。
しかしある時、虐めっ子から「もう虐めない!存在のないものとして一切無視する!」と宣言されました。
ここでコナンの怒りが爆発します。
虐めっ子からも意識されなくなることは、自らの存在(実存性)を完全に消され、自分は存在する価値のないものとして孤独な宇宙を漂うことになるからでしょう。
激情してコナンは虐めっ子に殴りかかってボコボコにし、虐めっ子を病院送りにしてしまいます。
先生は、規則に従って退学にするような教師にはなりたくないと言うのに対して、コナンは「僕に罰を与えないんですか?」と先生に問います。
先生は、「罰を与えてそれが何になるの?」と答えます。
前に一緒に暮らしたくない祖母の家のリビングを滅茶苦茶に破壊した時も、祖母から同じことを言われました。
怒りに対して怒りでない何かで応じることが、何を意味するのか?
運命という残酷な仕打ちに、怒りではなく、その怒りのエネルギーを自らの自立のエネルギーとするということを象徴するのかも知れません。
存在感を感じてもらえないことは、他人になんとかしてもらうのではなく、自分でしなければならないことだということなのですね。
母の存在に自分の存在価値を依拠し、怪物に助けてもらおうという消極性依存性から自立へと旅立つことが、この映画の主題かも知れません。
ラストシーンで分かること
母が逝く直前、コナンは母の病室で怪物に尋ねます。
どうしたらいい?
怪物は答えます。
あとはお前が心から素直に真実を話すだけだと。
そして怪物はコナンの背中を指で後押します。
コナンは自分の正直な、でも直視したくない気持ちを死にゆく母に伝えるのでした。
「ママに行って欲しくない」「お願い行かないで!」とコナン。
母の死を恐れ、その運命を見まいとする心性から母に逝ってほしくないという言葉を出すことで、それが本当のことであるということを認めたくないために前に進めないという心の制縛状態から、辛い運命を受け入れ、でも逝ってほしくないという心の真実を語れる存在となったのです。
母の死の間際、病床の母に抱かれて、穏やかな清陰の中で眠るコナン。
コナンを抱きつつ旅立とうとしていく母には実は、怪物の姿が見えているのでした。
怪物は見つめる母に小さく2度うなずき、母は穏やかな納得で死を迎えます。
怪物はコナンから物語の最後を問われ、「少年は母から自立して自らの足で歩み始めるようになるのだ」と教えるのでした。
ラストのラストで分かること・・・
母の死後、母のスケッチブックをコナンは開きます。
そこには、母の父から観せてもらったキングコングの映画の1シーンと、怪物がコナンに語った3つの物語の絵が描かれていました。
そして、怪物の肩に座っている母の自画像も・・・
コナンは理解したのです。
強く自分の足で歩んでいくよう、母も、怪物の姿になって現れた亡き父から導かれ、自分もまた今、その父(コナンにとっては祖父)に癒され、母の死を乗り越える強さへと導かれたのだと理解したのでした。
まとめにかえて
人はやがて死を迎えます。
それが本来あるべきものより早く訪れることもあるのです。
その死は必ずしも家族の死とはかぎりません。
自分の死かも知れません。
死は大切なものを失うこと、すなわち喪失体験です。
死を筆頭に、人生には多くの喪失を体験します。
ペットの死、犯罪被害にあうこと、財産を失うこと、目論見が外れること、倒産、失業、失恋、そして病気になることなど、多くの喪失体験に遭遇し、それでも人は生きて行かなければならないのです。
この喪失を乗り越えることができなければ、うつ病になってしまうかも知れません。
少なくとも充実感を感じることができなくなってしまいます。
喪失体験を乗り越えるにはエネルギーが必要です。
このエネルギーの根源は怒りであると私は考えています。
怒りすなわち攻撃性、これに理性と社会性による調整が行われて、喪失体験を乗り越えることができるのだと思います。
映画の中でコナンが示した破壊性は怒りが制御できない状態で生じたものです。
しかし、コナンの怒りの本当の対象は、厳しい祖母に対するものでも虐めっ子に対するものでもありません。
その怒りは、母の死という運命を受け入れられないことと、その運命をどうすることもできずにいる無力な自分への怒りであり、母の死を受け入れなければならないと頭では分かっていても、それを受け入れることの恐ろしさに対する怒りなのでしょう。
特に何かを恐れて現実を受け入れられないと感じている方は、一度、この作品をご覧になってはいかがでしょうか。