ブレインフォグ(脳の霧)は晴れるのか?──メカニズム解明と治療の可能性
ブレインフォグ(脳の霧)は晴れるのか?──メカニズム解明と治療の可能性
「ブレインフォグ(脳の霧)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは、集中力の低下、もの忘れ、思考の鈍さ、言葉が出てこない感じ、頭がもやもやして冴えない感覚などを総称する言葉で、ことにコロナ感染後に長く残る症状として一般にも知られるようになりました。「フォグ」とは英語で「霧」を意味する言葉で、まるで頭の中に霧がかかったように、考えがすっきりまとまらない状態を表しているのです。
この症状は、実際の研究でも確認されています。例えば、起立性頻脈症候群(POTS、立ち上がったときに脈が異常に速くなる病気)の患者を調べた古典的な研究では、患者自身が「忘れっぽい」「頭がもやもやする」「集中・思考・会話が難しい」と表現していました。これは重要な発見です。なぜなら、ブレインフォグが単なる「気分の問題」や「やる気の問題」ではなく、注意力・実行力・記憶力・言語能力といった、脳のさまざまな機能にまたがる明確な不調であることを示しているからです。
症状の現れ方には波があり、日によって調子の良し悪しが変わります。強い疲労感を伴うことも多く、仕事や学業の能率を落とし、生活の質を大きく損なうこともあります。新型コロナウイルス感染症の後遺症として広く知られるようになりましたが、実はそれだけではありません。抗がん剤治療を受けた人に起こる「ケモブレイン」や、慢性疲労症候群(ME/CFS、強い疲労が長期間続く病気)でも共通してみられる、複数の病気をまたいで現れる症状なのです。
メカニズムの解明はどこまで進んだか
このブレインフォグがなぜ起こるのか、その仕組み(メカニズム)の解明は、ここ数年で大きく進みました。
最も影響力のある研究は、軽症の呼吸器系の新型コロナであっても、脳に持続的な「神経炎症」(脳の中で起こる炎症反応)を引き起こしうることを示しました。具体的には、脳の中で「ミクログリア」と呼ばれる免疫細胞——脳に侵入した異物や損傷した細胞を処理する、いわば脳内の警備員のような細胞——が活性化します。この活性化は、脳の中でも「白質」という神経線維が集まった部分で選択的に起こり、神経の周りを覆う「ミエリン」という絶縁体のような組織を作る細胞の働きや、記憶を司る「海馬」という部位での新しい神経細胞の生成が乱れてしまいます。実はこの現象は、抗がん剤治療によるケモブレインの中心的な仕組みとも重なっているというのです。
もう一つの有力な仮説では、「肥満細胞」(アレルギー反応などに関わる免疫細胞で、体重とは関係がない)が刺激を受けて、さまざまな炎症物質(メディエーター)を放出し、それがミクログリアを活性化させて、体温調節や自律神経の中枢である「視床下部」に炎症を引き起こすという経路が想定されています。さらに、新型コロナウイルスの表面にある「スパイク蛋白」そのものが、ミクログリアや肥満細胞を直接活性化させるという報告もあるようです。
POTSの場合は、起立時に脳への血流が低下することが関与していると考えられています。このように、原因となる病気ごとに経路は異なっていますが、それでも炎症性サイトカイン(炎症を引き起こす情報伝達物質)の上昇と「神経炎症」という共通点が、複数の研究から浮かび上がってきているのです。
治療は可能なのか
では、本題である「治療は可能なのか」について考えてみましょう。原因が脳内の炎症や、神経細胞同士の接続部分である「シナプス」の変調にあるのなら、そこを標的にした治療ができるはずです。
ここで注目すべきは、AMPA受容体PETを用いた最新研究でしょう。PET(陽電子放射断層撮影)とは、脳の中で起きている変化を画像として可視化する検査技術のことです。「AMPA受容体」とは、神経細胞同士が情報をやり取りする際に重要な役割を果たすタンパク質で、これが増えすぎると神経が過剰に興奮しやすくなります。この研究では、新型コロナ後遺症の患者の脳でAMPA受容体の量が広い範囲で増加していることが画像として示され、さらにその量が、一部の認知機能スコアの低下や炎症マーカー(炎症の程度を示す血液中の物質など)と相関していることが分かりました。
これは二つの意味で重要です。一つは、これまで本人の自覚症状としてしか捉えられなかった「霧」を、客観的な画像データとして示そうとする試みだということ。もう一つは、AMPA受容体の働きを抑える抗てんかん薬「ペランパネル」が、治療薬として使える可能性を示したことです(ただし、これは現時点ではてんかん治療薬として承認されているものであり、ブレインフォグへの使用は未承認であることに注意が必要です)。
このほかにも、抗炎症作用をもつ天然のフラボノイド(植物に含まれる成分の一種)である「ルテオリン」、頭に直接電気や磁気の刺激を与える非侵襲的な脳刺激、高い気圧の環境で純度の高い酸素を吸入する高圧酸素療法などでも、認知機能の改善が報告されています。
一つの治療法では足りない理由
ただし、ここで注意しなければならないのは、ブレインフォグの原因が一つではなく、患者ごとに主たる経路が異なるという点です。ある人は神経炎症が主な原因かもしれないし、別の人は肥満細胞の活性化が中心かもしれません。この「原因の多様性」こそが、誰にでも効く万能な治療薬を作ることを難しくしている最大の理由なのです。
だからこそ、PETのような検査によって、患者一人ひとりの背景にある病態(病気の仕組み)を見分け、それぞれに合わせて最適な治療を選ぶという「層別化」(患者を病態ごとに分類して治療方針を決めるという考え方)が重要になってきます。これは、すべての患者に同じ薬を試すのではなく、検査データに基づいて「この患者にはこの治療が合っている」と判断していくアプローチが必須であることを意味します。
おわりに
確立した特効薬は、まだ存在しません。しかし、「霧」の正体が神経炎症とシナプスの変調として徐々に明らかになってきている今、診断を客観的な指標で捉え、治療の標的を特定しようとする試みは、着実に前進しています。脳の霧は、晴れる方向へと、確かに向かいはじめているのではないでしょうか。
この記事のまとめ
ブレインフォグ(脳の霧)は、集中力の低下・もの忘れ・思考の鈍さなどを伴う脳機能の不調で、新型コロナ後遺症、ケモブレイン、慢性疲労症候群など複数の病気に共通して現れます。近年の研究で、その背景には脳内のミクログリア活性化による「神経炎症」とシナプスの変調があることが分かってきました。AMPA受容体PETによって症状を客観的な画像として捉える試みも進み、ペランパネルやルテオリン、脳刺激、高圧酸素療法など治療の手がかりも見え始めています。ただし原因は人によって異なるため、病態に応じた「層別化」が鍵となります。確立した特効薬はまだありませんが、脳の霧は確実に晴れ始めているのです。
この記事についてのQ&A
Q1. ブレインフォグとは、どんな状態のことですか?
A1. 集中力の低下、もの忘れ、思考の鈍さ、言葉が出てこない、頭がもやもやして冴えない、といった感覚を総称する言葉です。気分ややる気の問題ではなく、注意力・記憶力・言語能力など、脳の複数の機能にまたがるれっきとした不調です。
Q2. 新型コロナの後遺症のときだけ起こるのですか?
A2. いいえ。新型コロナ後遺症で広く知られるようになりましたが、抗がん剤治療による「ケモブレイン」、慢性疲労症候群(ME/CFS)、起立性頻脈症候群(POTS)など、複数の病気に共通してみられます。
Q3. そもそも、なぜ起こるのですか?
A3. 中心にあるのは、脳内の免疫細胞「ミクログリア」が活性化して起こる「神経炎症」と、神経のつなぎ目である「シナプス」の変調と考えられています。肥満細胞やスパイク蛋白の関与、POTSでの脳血流の低下など原因疾患ごとに経路は異なりますが、炎症性サイトカインの上昇という共通点が見えてきています。
Q4. 治療はできるのですか?
A4. 確立した特効薬はまだありませんが、手がかりは増えています。AMPA受容体を抑えるペランパネル(てんかん薬として承認済み、ブレインフォグへは未承認)、抗炎症作用のあるルテオリン、非侵襲的な脳刺激、高圧酸素療法などで認知機能の改善が報告されています。自己判断での服薬は避け、必ず主治医にご相談ください。
Q5. なぜ「誰にでも効く万能薬」が作りにくいのですか?
A5. 原因が患者さんごとに異なるからです。だからこそ、PETなどの検査で一人ひとりの病態を見分け、それぞれに合った治療を選ぶ「層別化」が重要になります。

