dokusyo/2016-10-07
『死すべき定め―死にゆく人に何ができるか』
訳者あとがきに、「校正しながら泣いた」とあっりましたが、私も何度か読みながら泣いてしまいました。どうして涙がこみ上げてくるのかを理解できません。そして・・・ [#w1349c38]
訳者と同じく、この本を読んで相談者さんとの向き合い方が変わるのではないかと思いました。
医療介護関係者だけでなく、肉親や友の死が身近にある人など、すべての人に読んでいただければと思います。
詳細は、本書をご覧頂きたいのですが、医療の発展は人の臨終を家庭から医療機関へとシフトさせてしまったというのは事実でしょう。
そして、不治の病を直視するようなマインドセットを一般化して、十分な説明による同意という構造が定着しました。
しかし、その十分な説明は「こういう治療がまだできますよ」的な説明に主眼が置かれ、治る見込みの無さの程度や余命の中で、それぞれの死にゆく人たちが価値を置いている生き方のできる時間が、どれくらい残されているのか?ということについての説明が欠けていると著者は述べています。
それ以前に、それぞれの人たちの「何を犠牲にしてでも、これだけはこうありたい」という、その人その人の「残された時間をよりよく生きる価値や意味」を汲み取ろうという姿勢が念頭にないと主張しています。
そのような医療介護者を育成してしまっている現状が問題であろうともいうのです。
僅かに残された貴重な「いま」を犠牲にして、ただ単に延命や患者の安全ということだけに重きを置こうという構えは、「死にゆく人の"いま"をないがしろにする虐待」であるとさえ断言しています。
人は「死すべき定め」にあって、それに直面したとき、2つの勇気の試練を受けるのだそうです。
1つは「死と向き合い受容する勇気」であり、
1つは「受容した結果、如何に死ぬまでを生きようとするかを決定して実行する勇気」です。
その勇気の支え手として医療介護者は、助言者としての役割を果たすよう機能しなければなりません。残された時間をどのように生きたいのかを援助するのです。
死にゆく人の、それぞれの存在の意味と価値を読み取り、そして、引き出すチカラが求められると言ってもいいでしょう。
残された時間が10年20年あるというのは、永遠の時間を所有しているのと心理的には同じ解釈なのだといいます。
でも、その時間が数ヶ月とか数週間とかになったとき、人の価値の向かう方向性は大きく変わってきます。
人の判断はカーネマンのピーク・エンドの法則が示すように、「最高であった時点」と「最後のとき」だけを切り出して判断するのです。
その時、最高であったときの持続時間は計算には入ってこないのです。
ピークすなわち最高のときが最高ではなく最低であるなら、より以上に「最後のときの重み」が人生において重要となるでしょう。
この最後のときが、自分の「人生の選択権」を「自分で行使できる自由」を所有していた、言い替えるなら、「自分の人生の物語の作者が自分であった」と感じられるような終わりであることが、その人その人の生きた価値であるのではないでしょうか…
すべての人に読んでもらいたい
この本は、医療介護関係者だけでなく肉親や友の死が身近にある人など、すべての人に読んでいただければと思っています。