意識と死
意識と死
人の死は、個体の死であると同時に意識の伝承でもあるのではないでしょうか。
私は人の死というものを、回復不能な意識の消失と考えています。
これは脳死の少し手前、ということになるかも知れません。
脳死の定義は、
「脳死とは、呼吸・循環機能の調節や意識の伝達など、生きていくために必要な働きを司る脳幹を含む、脳全体の機能が失われた状態(日本臓器移植ネットワーク)で、その機能の回復が不可能な状態」
であると表現されています。
呼吸などを司る脳幹の機能が廃絶されていなくても、意識が回復不能な状態は生じるでしょう。
この状態は脳幹が機能しているため、脳死ではありません。
しかし、
わたしは、「意識の死が人の死である」と思うのです。
人が死に行く過程は、キューブラー・ロスによる秀逸な報告があります。
ロスのプロセスは、ただし死ぬまでの死に行くご本人についてのものです。
死後、残されたご家族の心的プロセスについては、フロイトによる「喪とメランコリー」に喪の作業として広く知れ渡っているところです。
現在のところ、意識を定義したり解明したりすることは成功していないと言えるのですけれど、
私は、意識を、「観察される精神現象である」と定義しています。
この定義に従えば、個人の意識は、意識不明になったとき、すなわち自分で観察できなくなったとき、
意識は個人(個人>他者)の領域から、他者の領域(個人の領域=0%,他者の領域=100%)に移行することとなります。
個人の死後、他者の領域における"故"人の意識の占有割合が高まって、故人の意識は、ある意味で他者の意識とフュージョンすることになるのではないでしょうか。
人の死後、遺伝子が部分的に子孫に伝承されるように、故人の意識は他者の意識に統合されると考えていいのではないでしょうか。
ドーキンスの言うミームのようなものとも言えるでしょう。
「“自分の死はただ死ぬだけのこと。だが、他の人の死は、それをかかえて生きていかなければならない。”マシャ・カレコ(ドイツ系ユダヤ人抒情詩人)」
人の死後も、故人の意識はやはり他者の意識に影響を及ぼすと感じられているのは確かなようです。
さてさて、皆様はいかがお考えでしょうか…