生きる価値とは?
生きる価値とは?
人にとっての人生の価値とはどのようなものでしょうか?
自分の存在における価値は、必ずしも個人の領域での満足に止まるものではありません。
他者の領域に至るまでの範囲をもって、生起すべきものでしょう。
個体(遺伝子の組合せ)は消滅したとしても、ミーム(生きられた存在)は過去存在として生き続けるかもしれません。
個人にとっての充足感は直接的には感知されなかったとしても、何がしかの意識下の感覚は得られていると信じたいと思うのです。
価値とは考えても分からないものかも知れません。
ただ行為する中で自ずから導かれ生成されるものと言えるでしょうか。
生きる価値と欲求満足は、一部重なる部分はあるにしても、質の異なるものだと思います。
欲求満足は「してもらう」あるいは「達成する」もの。
一方で、生きる価値とは、「してあげられる」こと、あるいは「双方向性の関係性」の中に意味づけられるものではないでしょうか。
欲求満足は、得られなければ何もないという構造でしょう。
生きる価値とは、得られることでも得られるけれど、何も期待し得ない状況にあっても見出せるのであるとフランクルは述べています。
何も期待し得ない状況にあって、自分という領域を超えて、他者や世界という領域に思いが広がったときに存在する価値があるのではないでしょうか。
私は、SF映画大好きおじさん(爺さん?)なのですが、SF映画を観て感動したり涙ぐむことがあります。
ブレードランナー、ターミネーター2、ターミネーター4、アルマゲドン、ディープインパクトetc.etc.…
いずれも、主人公や登場人物の死後に残された意味づけや価値にこころ動かされての思いです。
それは犠牲や生きる意味、どのように生きたかなど、死した登場人物が自らは感じることが叶わなかった、自分という領域を超えた他者や世界という領域での価値でしょうか。
否、アルマゲドン、ターミネーター2、ターミネーター4で、主人公は自己が犠牲になることで、己が存在に価値をしっかりと感じ取っていたでしょうし、
ブレードランナーのアンドロイドは、自らの寿命が今尽き果てようとしているその最後の瞬間に、自分を殺そうとしていた主人公の命を助けています。
自分の死を悟ったときに、自分を殺そうとしていた相手を、そして自分も殺そうと思っていた相手を、
その相手が落下して死ぬのを放置して、相手も死ぬし自分も寿命が来て死ぬという選択を放棄し、
落下する主人公を掴み取り引き上げ、助けたのです。
恐らく、助けられた主人公は、その意味を自己に問い続けることになるでしょう。
脱走殺人アンドロイドだけとしての意味づけが、何か違うものに変わるのです。
フランクルのいう過去存在に止揚されることで、自己を超えた領域での価値を得ることになると言えるかもしれません。
難しく考えなくとも、結果の達成に意味づけを重く置くことから、自分の信じる価値に沿って行動するそのプロセスに喜びを感じる意識づけをすることが、価値の方向性を見つけられる方略かもしれません。
さてさて、答えは闇の中?
いえいえ、それぞれの方々の潜在意識下に既に組み込まれているのかもしれません…